柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

竹田青嗣「モダニズムの光景」「「疑い」の条件と根拠」

柄谷行人「畏怖する人間」

 だから漱石が感じているのは、現実的な他者に対する異和ではなく、内側からみた彼自身の存在の異和である。すなわち、この世界に個体として存在することが異和であり、それは個体が個体であるかぎり消滅することはない、ということである。


柄谷行人『探究 II』

私はここで「この私」や「この犬」の「この」性を単独性と呼び、それを特殊性から区別することにする。(略)単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体である。

(「この私」の単独性は)主観や客観という認識論のタームでは語りえない。

(「私」の単独性もまた)私の名前(他者が命名した)によってしか開示されないのである。

(フランスにも、オランダにも属さないような)言説的システムの空=間にほかならない。

では、なぜそれは不可避的なのか。

しかし、共同体的な在り方を人間の本性(自然)とみなす思考をくつがえすには、不可欠な仮説である。


竹田青嗣『世界の「壊れ」を見る』(海鳥社
モダニズムの光景 柄谷行人『批評とポスト・モダン』」

『批評とポスト・モダン』から浮かんでくるのは、一見そう見えないとしても、それとよく似た光景なのである。
 前著『隠喩としての建築』や最新刊の『内省と遡行』(これは「批評とポスト・モダン」〔『海燕』一九八四年十一月号〕より前に書かれたものが多い)などで、柄谷行人は、言語や論理や社会的なものの構造分析(たとえば貨幣)の「基礎」を、形式化の内部で追いつめるという作業を繰り返してきた。
 この仕事は柄谷行人にとって、ふたつの中心的な契機を持っていたと思える。ひとつは、それは、『畏怖する人間』以来の重要な関心をなしていた存在論の問題を、ポスト構造主義的(デリダ的)光景から新しく見直すことを意味していた。

 この試みはむろん、『マルクスその可能性の中心』や『日本近代文学の起源』で彼がつかんだ方法の、ラディカルな推し進めを意味している。そして重要なのは、そこで彼がつかんでいた、ニーチェフーコー的、あるいはデリダ的(つまりポスト・モダン的)光源は、的確に〈戦後〉的認識装置のパラダイムを転倒させるようなリアリティを持っていたということである。

しかし、おそらくこのモダニズム批判を支えているのは、哲学批判、形而上学批判を中心課題とするポスト・モダンの言説が(したがって『隠喩としての建築』や『内省と遡行』における〈批評〉の言葉が)、もはやある時点から、現実と拮抗し緊張を生み出すような関係を保ちえなくなっているという柄谷自身の感覚なのだと思える。
 巻頭の「批評とポスト・モダン」で、柄谷はふたつの大きな問題を提示しているが、その意味は、今言ったような場所から見るといっそうはっきりするはずである。
 彼が指し示した問題とは、ひとつは批評の意味(根拠)とは何かということであり、もうひとつは、ポスト・モダン的言説の現実的な意味合いは何かということである。
 柄谷のいう〈批評〉の概念については、「《批評》のニヒリズム」(『群像』一九八五年七月号、『〈世界〉の輪郭』所収)で幾分詳しく触れたので、ここでは要点だけ見よう。たとえば「《批評》がうしなわれる瞬間ははっきりしている。それはパラドックスを理論的に解消してしまうときだ」と彼は書くが、これはいわば柄谷自身が行なってきた「哲学批判」の問題に対する自註でもある。

 要するに柄谷行人は、西欧のポスト・モダンは西欧形而上学にきちんとつきあたっていたが、日本ではその本来的対象を見出しえていないと言っている。

 『批評とポスト・モダン』は、日本的モダニズムに対する大変鋭利な批判になりえている。


「「疑い」の条件と根拠 柄谷行人『探究 II』」

 著者はあとがきに、『探究』の連載で自分が問い続けてきたのは、「『間』あるいは『外部』において生きることの条件と根拠」だった、と書いている。著者にはあまり似つかわしいとは言えないこの言葉から、しかしわたしは、ひとりの批評家の率直な声を受けとる。

 『探究 II』はそのようなものとして、つまり、「たんに理論の問題ではなく生きることの問題」として書かれているが、まずその”理論”的な問題のかたちを取り出してみよう。
 『探究 II』は、単独性の問題、つまり「この私」や「この物」の、このということから始まっている。

 柄谷によれば、「この私」の単独性とは主観のことではない。

だから独我論の批判は、単なる認識論の問題ではなく「『形式化』一般の根本的批判にかかわる」。そう柄谷は言う。
 しかし、”理論的”には、柄谷の議論はわたしには物足らない。
 別のところですでに述べたことがあるが(「夢の外部」、『夢の外部』所収)、柄谷の「形式化」一般の批判(『隠喩としての建築』)は、結局、形式論的には主観と客観の「一致」は原理的にありえないし、したがってこの両者の厳密な変換式は成立しえない、ということに帰着する。

誰でも知っているこの感覚が、柄谷の単独性という言葉を生かしているのだ。
 だが柄谷は、なぜそういった言葉の背理や矛盾が生じるのかを”理論化”するというより、単に、「認識論のターム」によっては単独性が表現できないということを、さまざまなかたちで”指摘”しているだけだと言える。

柄谷はむしろ、主観‐客観(特殊性‐一般性)の系を消去して、その代わりにそれを「普遍性‐単独性」という系に書き変えてしまうのである。
 のちに見るが、これは柄谷の思考の必然から来ている。この思考の特質によって、彼は一般的なもの、共同的なものを”錯誤”としていわば自分の生から押しのけるのである。
 さて、この単独性は固有名にかかわる、と柄谷は言う。

この固有性をどう考えればいいかを、彼はさまざまな角度から、”探究”しようとする。たとえば柄谷によると、単独性は「われわれがそれを固有名で呼ぶかぎりでのみ出現する」。

 これを柄谷は、フッサールハイデガー的な”自我論的還元”の視線への批判として述べている。

柄谷のフッサールハイデガーの理解はわたしのそれとは全く別もので、まるでもう一人ずつフッサールハイデガーがいるかのようだ。彼の現象学理解では、カントやフッサールはほとんど違わないし(廣松渉も同様だ)、ハイデガーの「共現存在」の概念は、「共同的」な現存在ということになってしまう。

 重要なのは、彼の「単独性」の概念が、せんじつめると、”固有名で呼ばれるときに単独性が生じ、単独性が意識されたときに(ひとは)固有名で呼ばれる”、という循環論法のうちにあることである。つまり、柄谷は、単独性が固有名にかかわり、また「歴史性」ということにかかわる、といったことを”指摘”するが、決してひとつの理論としてそれを考え直そうとしているのではない。
 柄谷の言うような人間の生の経験の固有性は、じつはあるはっきりした理由で言語の一般性と相容れないものだ。

 また、たしかに柄谷が言うように、「私」や「他者」の単独性(固有性)は相互的なものであって、一切を「主観」が作り出す(構成する)とは言えない。だが、彼の主張に反して、フッサールハイデガーはそんなことを全く言っていない。

しかし明らかなのは、柄谷の方法が、まさしく形式論的に(一般性‐特殊性、普遍性‐単独性)その矛盾を指摘することにとどまっている、ということである。

この単独性の問題から出発して、柄谷は自分の批評の「条件と根拠」を語っているのであり、そのことがもっと興味深いからだ。

そのような思考を、柄谷はたとえばデカルトスピノザの中に見出す。
 たとえば、柄谷によればデカルトの「コギト」は、決して一般的に言われるような「内省的」な意識主義を意味しない。

 こういう考え方のうちに、柄谷にとっての批評すること(「実存すること」)の「条件と根拠」が語られている。

 ところで、柄谷行人は処女作「畏怖する人間」で、自己の「不透過」な内部に畏怖する人間として漱石を描いた。

しかし、柄谷がこのような「自分自身」と「世界」への異和の感覚を、「歴史的・空間的な差異性」へ、そして「他者の他者性」というところまで追いつめていったことは明らかだろう。たとえば、べつのところで彼は、漱石神経症は、「二つの文化体系に生きなければならない者が」、自分の経験を統合する枠組みを持てなかったために生じたものであり、しかし漱石はそれが心理や環境に還元できない問題であることを知っていた、と書いている(「閉ざされたる熱狂」)。
 おそらく柄谷も、どこかで二つ以上の異なった「文化体系」に生き、そのことで自己のうちにどんな一般的説明にも還元できないある「不透過」なものを見出したのだ。

 かつてわたしは、このような柄谷の言葉を身につまされるように読んだ覚えがある。

また柄谷が言うように、そういった「異和」は万人が抱え持つものというより、ある「奇妙な場所」や「時代」に立たされた人間に固有のものだと考えるべきだろう。だがまさしくその点に、柄谷の批評における「条件と根拠」の困難さがあるのだ。
 たとえば彼は、デカルトスピノザの立場を「超越論的」という言葉で考えている。
 柄谷によればスピノザは自由意志を否定するが、これはおよそ「超越的な」立場、メタレベルに立って一切を客体化するような自由な主体への批判を意味する。柄谷の「超越論的」立場は、いわば異なった文化(共同体)の外に立つが、しかしそれはメタレベルの立場を意味しない。

 この議論によって彼は、「万人」とは違う「奇妙な立場」に立ってしまった人間が、「万人」の内属する場所に対して持つ「疑い」(批評)の、”権利問題”を問うているのである。

 せんじつめるなら、柄谷の「立場」は、人間はほんとうは「共同的」な存在ではなく「単独的」な存在(=実在)なのだと”指摘”することにある。

それは、柄谷がそうしたように、しばしば共同体への絶対的な異和として表現されるが、まさしくそれこそが近代的な「主体」の立場の特質なのである。
 柄谷はルソーやレヴィ=ストロースから、閉じた共同体ではなく、開かれた「交通空間」を特質とする「共同体以前の人間」についての「仮説」を示唆している。

 最後にわたしは付け加えておきたいが、柄谷行人の「疑い」の立場は、まさしく彼の時代や場所に固有のものである。その意味で『探究 II』は彼自身の”エチカ”であり、他の人々がこのような「条件と根拠」を僭称することは無意味であろう。