柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

バフチンの引用論

バフチン 一九四〇年

ヘレニズム時代のきわめて興味深い文体論の問題のひとつ――それは引用の問題である。公然の引用、半ば隠された引用といったような形式、コンテクストで引用を囲む形式、イントネーションによる括弧づけの形式、引用されている他者の言葉の疎外と獲得の種々の程度といったように、果てしなくさまざまであった。〔……〕
中世における他者の言葉にたいする態度も劣らず複雑で両義的であった。明白で敬虔に強調された引用、半ば隠された引用、隠された引用、半ば意識的な引用、無意識の引用、正しい引用、故意に歪めた引用、意図せず歪めた引用、故意に再解釈された引用、等々、他者の言葉が果たした役割は、中世では巨大なものであった。他者のことばと自己のことばのあいだの境界は柔軟で両義的であり、往々にして屈曲し、錯綜している。ある種の作品は、モザイクのように他者のテクストから構成されていた。


バフチンマルクス主義言語哲学

他者のことばや語る人格を言葉自体が感じるその形態のなかに、歴史的に変化していく社会的・イデオロギー的交通の諸タイプがとりわけ判然とあらわれている。

 あらゆる発話は、それがいかに意味を持ち完結したものであれ、絶えまなき言語的交通(生活・文学・認識・政治等における交通)の一契機にすぎない。しかしこの絶えまなき言語的交通自体もまた、所与の社会的集団の絶えまなき全体的生成の一契機にすぎない。〔……]言語が生き歴史的に生成していくのは、まさにここ、具体的な言語的交通のなかであって、言語諸形態の抽象的言語学的体系のなかや話し手たちの個人心理のなかにおいてではない。


バフチン

美的交通という独自な形式は、孤立しているわけではない。それは社会生活という単一の流れに関与しており、共通の経済的土台を反映するとともに、他の交通形式と相互に作用しあい、たがいの力を交換しあう。

言語的交通の単位としてのそれぞれの具体的な発話の境界は、ことばの主体の交替、つまり話し手の交替によって定められる。


バフチンドストエフスキイの創作の問題』(一九二九年)

言葉は、モノではなく、社会的交通の永遠に動的で、永遠に変化しやすい環境である。


メドヴェジェフ『文学研究における形式的方法』

 イデオロギー的交通の形式とタイプは、今日までほとんど研究されていない。〔……〕たとえばコンサートホールや絵画展のように〔……〕直接的な交通の形式は、ある種の芸術ジャンルにのみ本質的であるにすぎない。学問の形式にとって本質的な学問的交通が学会であるなどと考えるのはばかげていよう。〔……〕芸術的交通の形式も、これにおとらず複雑で繊細である。


ヴォロシノフ『フロイト主義』

 言葉とは、それが生まれたところのごく身近な交通の「シナリオ」のようなものである。この交通は、話し手が属している社会的グループのもっと広汎な交通の一契機となっている。

内言もまた、外言とおなじように社会的交通の所産であり表現である。


バフチン「生活のなかの言葉と詩のなかの言葉」(一九二六年)

 この芸術的交通は、他の社会的形式と共通の土台から育ってくる。

それは独自なタイプの交通であり、それのみに固有の形式を持っている。芸術作品の素材のなかに実現され、とどめられた社会的交通のこの独特な形式を理解することこそ、社会学詩学の課題である。


ミハイル・バフチン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%95%E3%83%81%E3%83%B3


松本礼二『トクヴィルで考える』(みすず書房

 大統領制や司法審査制からニューイングランドのタウンシップにいたる政治や司法の諸制度、また結社や言論の自由という市民社会の原理がアメリカのデモクラシーの平穏な運行にいかに資しているか、これらの点についてトクヴィルの叙述を具体的に追う紙数はない。

ニューイングランドのタウンシップの住民自治人民主権の日常的具体化であり、結社の自由の無条件の承認を求めるトクヴィルの論理は、少なくとも当時のフランスにあってはもっとも急進的なデモクラシーの主張であった。と同時に、権力の集中や専制の危険との対抗関係において、地方の自由や結社活動に期待される役割は、かつて貴族、特権身分、特権団体が果たしていた中間団体の機能にあることも事実である。

農村共同体においても、トクヴィルニューイングランドのタウンシップと同質であったとする聖堂区の直接民主政は一八世紀には跡形もなく、すべての行政は地方総監の代理人によって運営されている。

聖堂区にかつて存在した住民の団体自治ニューイングランドタウンミーティングに類比するのも、牧歌的理想化の印象は否めない。

これに対して、トクヴィルアメリカには「われわれが政府と呼ぶもの」の影も見えないと驚き、住民総会(タウンミーティング)を最高意思決定機関とし、あらゆる行政事務を市民が直接分掌するニューイングランド自治制度に人民主権の真の意味の具現を見出す。

部分団体の特殊意思を排して、「一にして不可分」な国民の一般意思の形成に人民主権の要諦を見るフランスの政治的伝統に真向対立して、トクヴィルアメリカ・モデルに依拠して「真の人民主権は分散されざるを得ない」と主張した。