柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

フェリックス・ザ・キャット

フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』
(ステファン・ナドー編、國分功一郎・千葉雅也訳、みすず書房

 抑制はダイアグラム化されていたものを再イコン化しようとする(第二の検閲――事後の抑圧〔Nachdrangen〕=放射−能動的な抑圧(5))。

 編注
 (5) 「「抑圧」(一九一五年)〔井村恒郎訳『フロイト著作集』第六巻、七八ページ〕という論文において、フロイトは広義の抑圧(三つの段階を含む)とその第二段階にほかならない狭義の抑圧とを区別している。第一の段階は「原抑圧」に該当し、それは欲動そのものを対象とするのではなく、欲動の記号を、つまり欲動がそこに結びつけられているが意識にまで到達しない、欲動の「代理」を対象とする。このようにして抑圧すべき要素に対する牽引の極として働く、最初の無意識の核がつくりだされる。/本来の抑圧(eigentliche Verdrangung)、つまり「事後の抑圧」(Nachdrangen)はそれゆえこの牽引力に上級審の側からの反発(Abstossung)が付加される二段階の過程である。/最後の第三段階は、症状、夢、錯誤行為などによる「抑圧されたものの回帰」である」(ラプランシュ、ポンタリス『精神分析用語事典』〔村上仁監修、みすず書房〕、「抑圧」の項目)


編者・ナドーの「ドゥルーズガタリスズメバチと蘭である」
という再三の記述で両者の同性愛をイメージしてしまう。
浅田彰は、柄谷行人と自身をドゥルーズガタリに見立てたのではないか。

14日に千駄ヶ谷3丁目で
『アンチ・オイディプス草稿』を読み終わり
渋谷パルコで廣松渉マルクスと歴史の現実』(平凡社ライブラリー)を買う。


マルクス共産党宣言

 階級対立の上に立つ旧社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会(アソシアシオン)が現われる。


マルクスエンゲルス共産主義者同盟 中央委員会 回状」(一八五〇年三月)

 われわれの任務は、……少なくとも決定的な生産力がプロレタリアートの手に集中されるまで、しかも世界の主要な諸国でプロレタリア権力が樹立され民族間の軋轢が解消されるまで日まで、革命を永続させることである――労働者が最後の勝利を得るためには……自分の階級的利害を明確にし、できるだけ早く独自の党的立場を固め、……プロレタリア党の独立の組織化を進めなければならない。彼らの戦いの鬨の声はこうでなければならない。すなわち永続革命! である。


廣松渉マルクスと歴史の現実』(平凡社ライブラリー

 先回りして申しておきますと、この時点での永続革命論というのが晩年のマルクスエンゲルスにそのまま維持されているのか、あるいは変更されたのかということについては、研究者のあいだで意見の対立があります。ただし、ロシア革命の指導者たちは、レーニンにせよトロツキーにせよ、この五〇年の回状を暗記するほどよく覚えていたということがよく言われます。ただしトロツキーの言う永続革命というのは、この回状に言う永続革命と言葉としては同じですが、中身としてどこまで共通しどこまで違うか、これまた研究者のあいだで若干の意見の対立があります。

 マルクス主義運動は、第二インターの時代においてすら、国際主義の建前を崩したわけではなかったが、「国民生活」が帝国主義国家競争戦の勝敗に懸るという歴史的現実を反映して、労農大衆ですら排外主義的な民族意識にとらわれていた即自的な状態に追随し、世界革命の同時的遂行が見通せぬという条件に藉口しつつ、事実上ショービニズムに陥っていた。


15日、『マルクスと歴史の現実』も読み終ってしまったので
また渋谷パルコで
磯崎新浅田彰『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』(鹿島出版会
竹田青嗣『人間的自由の条件』(講談社学術文庫
を買った。


竹田青嗣「資本主義・国家・倫理」
『人間的自由の条件 ヘーゲルポストモダン思想』(講談社学術文庫

 柄谷は、普遍交換と普遍分業を推し進める動因としての資本主義システムを根本的に変革しないようなプランは、結局すべて「社会民主主義」に帰結するほかない、と主張するのだが、これは彼が問題を、資本主義か反資本主義か、という古典的な政治観念の範疇で考えているためにすぎない。重要なのは政治主義的な区分ではなく、歴史および社会の構造的本質から問題の本質を取り出すことができるかどうかということである。


柄谷行人揚棄せよと言っている資本主義とは
政治観念や政治主義ではなく経済システムだと思う。
柄谷が竹田を読んでいるとは思えないが、『世界史の構造』で
「歴史および社会の構造的本質(交換様式)から問題の本質を取り出す」
試みを行なっている。