柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

田中康夫と浅田 彰の憂国呆談2 talk45

http://www.sotokoto.net/jp/talk/index.php?id=48
田中康夫と浅田 彰の憂国呆談2

浅田

 ちなみに、このあいだ柄谷行人と話したんだけど、1901年に田中正造明治天皇に直訴した足尾銅山鉱毒事件で封じ込めた鉱毒が、東日本大震災の影響で決壊して流出したってのは、象徴的な話だね。彼が『「世界史の構造」を読む』(インスクリプト刊)86ページ以下で言ってるように、あの事件が近代日本の思想や文学に与えた影響は、従来、考えられてた以上に大きいんじゃないか。田中正造の直訴文は幸徳秋水が起草したらしいし、『谷中村滅亡史』は20歳の荒畑寒村が書いた。社会主義アナーキズムの源流のひとつがここにあるといってもいい。また夏目漱石の『坑夫』も足尾銅山の話なんだね。当時は日光(伝統)─足尾(近代)ってのが北関東の観光コースだったらしく、修学旅行でそのコースをたどった芥川龍之介は、『日光小品』で、鉱毒事件には触れないものの、唐突にクロポトキンの言葉を出してる。そもそも足尾銅山を再興したのは、古河市兵衛古河財閥創始者)と、志賀直哉の祖父であり、鉱毒事件を調査しに行こうとした直哉は父と対立、その後のいきさつも踏まえて『和解』と『暗夜行路』が書かれることになる。大逆事件幸徳秋水らが摘発された)の年に直哉は『白樺』を創刊、政治から教養主義への転向とも見えるけど、むしろ、社会主義的なものを別のかたちで受け継ごうとしたとも見られるのではないか、と。そして、今年の震災で堆積場が決壊し、鉱毒汚染物質がまた流出したっていうんだけど、足尾鉱毒事件はさまざまな点で今回の原発事故の先駆けとも言えるかもしれないね。


浅田彰氏が柄谷氏と話したというのは
昨年10月の大谷大学の講演の時だと思う。
インスクリプトの丸山さんが浅田氏に
『「世界史の構造」を読む』を献本すると
言ってました。