柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

神中心主義から人間中心主義へ

ツヴェタン・トドロフ『未完の菜園 フランスにおける人間主義の思想』
内藤雅文訳、法政大学出版局

 ルネサンスと時を同じくして、天動説から地動説へと移りかわり、われわれの地球は宇宙の中心から締め出されたのだが、その一方で、人間的事象の次元でも、神中心主義(あるいは異教の〈宇宙中心主義〉)から人間中心主義(アントロポサントリスム)へと移ったのである。


ルソー『社会契約論』

 人間は自由に生まれて、自分自身の主人である。

 社会契約が少しも守れなかったとしても、それはどうでもよい。もしも個人の利益が、一般的意志によるかのように、彼を保護したのであれば。


ウェストミンスター寺院、バッキンガム宮殿には
91年に行った。


ウェストミンスター寺院
11世紀にエドワード懺悔王が建設し、1066年以降、英国国王の戴冠式が行われている。1245年、ヘンリー3世が再建を決め、フランスの建築家を招き、フランスのゴシック建築にならって現在の寺院を建て始めた。14世紀末までにおおよそ完成するが、正面部分は16世紀初め、塔は17世紀、と長期間にわたって建設されている。
埋葬されている著名人
アイザック・ニュートン 錬金術師、自然哲学者、数学者
チャールズ・ダーウィン 自然科学者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%AF%BA%E9%99%A2


バッキンガム宮殿
1703年に、バッキンガム公ジョン・シェフィールドが自らの邸宅として桑畑を購入して建てたバッキンガムハウス (Buckingham House) が始まりとされる。当初は煉瓦のみで建てた非常に粗末な邸宅に過ぎなかったが、1761年にジョージ3世が、王妃シャーロットと子供達の為に譲り受けて私邸として使うようになった。
引き続き王位に上がったジョージ4世は、建築家ジョン・ナッシュの忠告によって、煙瓦造りだったバッキンガムハウスを1825年から12年かけて全面改築に着手、それまでルネッサンス様式だった建物をネオクラシック様式に改装したが、当のジョージ4世は王宮の完成を見ないまま死去した。
1837年にヴィクトリア女王の即位の際にセント・ジェームズ宮殿から移り住み、以後バッキンガム宮殿はイギリス王室の公式の宮殿となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%A0%E5%AE%AE%E6%AE%BF


ジェームズ1世―エリザベス・ステュアート―ゾフィー・フォン・デア・プファルツ―ジョージ1世―ジョージ2世―ジョージ3世―ケント公爵エドワード―ヴィクトリア女王エドワード7世ジョージ5世―ジョージ6世エリザベス2世ウェールズ大公チャールズ王太子ケンブリッジ公爵ウィリアム王子


新羅王子・天之日矛―多遅摩母呂須久―多遅摩斐泥―多遅摩比多詞―葛城高額比売命―神功皇后応神天皇
古事記においてアメノヒボコ阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(たぢまもり・田道間守{日本書紀})であり、次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。しかし日本書紀において結婚したのはアメノヒボコでなく意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等とされている点で異なる。
なお、アメノヒボコ新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3
昔氏初代の昔脱解(ソク・タレ。第4代脱解尼師今)
倭国東北一千里のところにある多婆那国[12]の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝(アヒョ)夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
12. 昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国(→上垣外2003 p.70)、但馬国肥後国玉名郡などに比定する説がある。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか西域の楽神の乾達婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もある(→井上訳注1980 p.35)。『三国遺事』では龍城国とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85#.E5.BB.BA.E5.9B.BD.E7.A5.9E.E8.A9.B1


東京新聞5/1朝 街頭の民主主義「柄谷行人さんに誘われて、脱原発を求める市民のデモ行進に参加した。民主主義は議会の中だけにあるのではない、自由な活動や主張が民主主義の原動力」(山口二郎) この間、心ある報道陣は市民と連帯した。知識人は市民と一緒に闘ったか? #genpatsu
約4時間前
koukyoushimin02 公共市民塾staff