柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

Re: 小林秀雄 2011年11月14日 03時52分

拝復 makorin様

丁寧なお返事ありがとうございます。

柄谷がコンプレックスについて発言したのは確か中上との対談です。

「誰にでもコンプレックスはある。僕もある。ルサンチマンがあるかどうかが問題だ。君だって浅田彰にコンプレックスがあるだろう」

出典はどこかというと「ダイアローグ」を引っ張り出してこないといけません。ダイアローグ、日本近代文学の起源、批評とポストモダン、意味という病、この辺が私の思想の出発点でしょうか?NAMあたりからついていく気がしなくなりましたが。

要するに浅田に対してはコンプレックスがあるのかなとも思いました。

釈迦に説法ですが、小林秀雄というひとがベルグソンに拘ったのは重要ですね。僕も真摯に「感想」を読もうと思います。彼は脳に随伴する現象としての心ではない自由意志を問題にしました。これは進化心理学が流行する昨今において必ず反動として主張されることでしょう。或いはスピリチュアリズムなどとすみ分けているのかもしれませんが。

柄谷というと私の恩師が東大駒場で仲が良かったそうです。
恩師はドイツ語で一生懸命マルクスウェーバーと格闘していたらしいですが、柄谷は「遊んでばっかりいたね。プールに女性を追いかけに」「ただ本郷に英字新聞は真面目に読みに行っていたな」とのこと。二人は同じ経済学部。駒場寮で同室か隣室だったようです。
恩師はブントのシンパといったところ「柄谷はそんなにやっていなかったよ」とのこと。セクトN06云々の話が怪しくなってきます(笑、60年代の証言を今度読もうと思っていますが)。
恩師は駒場の国際関係論(当時の外交史)の院へ、柄谷は英文學へ。
恩師は学究肌なので、柄谷のその後には関心がなかったようです。
心情的にはマルクス主義者でしたが、活動はせずポーランドの連帯運動で(彼はポーランド近現代史の日本の第一人者です)で転向。普通のリベラルになりました。
何故か同郷のよしみで三上治とは友達なのだそうです。
ちなみに駒場寮の同室には上村忠男がいたそうです。彼は真面目な哲学青年で当時の実存主義を嫌い「サルトルは全く意味のあることを言っていない」と怒っていたが「弁証法的理性批判」かなにかで初めて「意味があることを言っている」と言っていたとのこと。

まあ、話はそれました。
盟友の田中康夫が右翼社民主義者になってから政治的発言をせず大人しく「教授」と音楽教室をやっている浅田を柄谷がどう思っているかは知りませんが。

小林へは劣等感というより模したいという気持ちがあるように思います。
自分の感性からの断言、そして日本へ回帰した小林に対して世界共和国。

ということで、またつらつらと恥ずかしながら乱脈な印象批評をしていまいました。
よろしければご返信下さいませ。
季節の変わり目故、くれぐれもご自愛ください。

敬具


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9
ザラスシュトラ(紀元前13世紀?〜紀元前7世紀?)は、ゾロアスター教の開祖である。
一神教を最初に提唱したともいわれるが、ゾロアスター経典の中には、古代アーリア人に共通する多くの神々が登場する。したがって、正確には「数多くの神々の中から、崇拝に値する神をアフラ・マズダーだけとした」人物である。その教えは、ユダヤ教キリスト教に影響を及ぼし、また初期仏教にも影響を及ぼしていると一般に言われる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99
善と悪が争い、最終的には善が勝利するとされている。ユダヤ教を母体としたキリスト教もこれらを継承していると言われる。さらに、大乗仏教において弥勒信仰と結びついたり、またマニ教ゾロアスター教の思想を吸収した。イスラム教もまた、ユダヤ教キリスト教マニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、聖クルアーンにもゾロアスター教徒の名が登場する。

アケメネス朝ペルシア(紀元前550〜330年)の歴代の大王たちが、ザラスシュトラの教え(ゾロアスター教)に帰依していたとする根拠には以下のものがある。
アケメネス朝第3代の王ダレイオス1世は多くの碑文を残したが、自ら「アフラ・マズダーの恵みによって、王となりえた」と記している。
いずれにせよ、初代の王であるキュロス大王が「ユダヤ人のバビロン捕囚に対する解放者」と見なされるように、アケメネス朝ペルシアは、異民族の宗教に対して寛容であった。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝ペルシア帝国の「国教」であったとしても「支配者の宗教」という意味に限定されると考えられる。帝国に帰属する様々な民族の諸宗教に対しては一定の自由が保障されており、アケメネス朝支配下においてユダヤ人は独自の「シンクレティズム」的宗教思想を育むことが可能であった。


アケメネス朝(紀元前550年 - 紀元前330年)
キュロス2世(紀元前550年 - 紀元前529年)
カンビュセス2世(紀元前529年 - 紀元前521年)
スメルディス(紀元前521年)
ダレイオス1世(紀元前521年 - 紀元前486年)


パルティアを倒したサーサーン朝(紀元後226〜651年)は宗教政策を一変させ、ゾロアスター教を正式に「国教」と定め、儀礼や教義を統一させた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦、サーサーン軍は敗れた。敗戦後イスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、イスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。
しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督のマーフワイフの裏切りにより殺害され、サーサーン朝は断絶した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E6%99%82%E4%BB%A3
正統カリフとは、イスラム教・イスラム帝国の初期の時代においてイスラム共同体(ウンマ)を率いたカリフのことを指すスンナ派の用語。

アラビア語では al-Khulafā' al-Rāshidūn (「正しく導かれた代理人たち」)と言い、神の使徒ムハンマドの死後、イスラム共同体の長に選出されたアブー=バクル以下、イスラム共同体の合議によって選出され継承を行ったウマル、ウスマーン、アリーの4人を指す。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%9C%9D
ウマイヤ朝(661年 - 750年)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝
イスラーム預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9C%9D
アッバース朝は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1258年)。
イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバースの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はモロッコから東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められた。