柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

廣松渉 東北アジアが歴史の主役に 日中を軸に「東亜」の新体制を

廣松渉著作集 第十四巻』(岩波書店

 世紀末について語るにはまだ早過ぎるような気もする。ましてや、東北アジアが歴史の主役になるとの予想は、大胆すぎるかもしれない。しかし、二十世紀がもうすぐ終わろうとしていることを考え、また、筆者が哲学屋であることを免じて、書生談義をお許し願いたい。
 つい数年前までは、欧米の落日は言われていたが、ソ連や東欧が大崩壊するなどとは誰も予測していなかった。ソ連や東欧の「社会主義体制」は内部に矛盾をはらみながらも、もう暫くは存続するものと思われていた。
 日本では好景気と五五年体制が続くと思われており、細川連立内閣の登場など考えもおよばなかった。アメリカに対して「ノー」と言える日がやがて訪れるとは思われていても、大統領の口から公然と「日米経済戦争」という言葉がこんなに早く聞かれるとは予期されていなかった。
 米ソ日が構造的に変動したばかりではない。ECヨーロッパも様子が変わってきている。
 このさなかにあって、東南アジアはたしかに様相が別になっている。が、これとて、今のところは、アメリカやヨーロッパあっての経済成長であり、東亜の隆昇ではある。
 将来にあっては、だがしかし、どうであろうか? コロンブスから五百年間つづいたヨーロッパ中心の産業主義の時代がもはや終焉しつつあるのではないか? もちろん一体化した世界の分断はありえない。しかし、欧米中心の時代は永久に去りつつある。
 新しい世界観、新しい価値観が求められている。この動きも、欧米とりわけヨーロッパの知識人たちによって先駆的に準備されてきた。だが、所詮彼らはヨーロッパ的な限界を免れていない。混乱はもう暫く続くことであろうが、新しい世界観は結局のところアジアから生まれ、それが世界を席巻することになろう。日本の哲学屋としてこのことは断言してもよいと思う。
 では、どのような世界観が基調になるか? これはまだ予測の段階だが、次のことまでは確実に言えるであろう。それはヨーロッパの、否、大乗仏教の一部など極く少数を除いて、これまで主流であった「実体主義」に代わって「関係主義」が基調になることである。
 ――実体主義と言っても、質料実体主義もあれば形相実体主義もあり、アトム(原子)実体主義もあるし、社会とは名目のみで実体は諸個人だけとする社会唯名論もあれば、社会こそが実体で諸個人は肢節にすぎないという社会有機体論もある。が、実体こそが真に存在するもので、関係はたかだか第二次的な存在にすぎないと見做す点で共通している。
 ――これに対して、現代数学や現代物理学によって準備され、構造論的発想で主流になってきた関係主義では、関係こそを第一次的存在と見做すようになってきている。しかしながら、主観的なものと客観的なものとを分断したうえで、客観の側における関係の第一次性を主張する域をいくばくも出ていない。更に一歩を進めて、主観と客観との分断を止揚しなければなるまい。
 私としては、そのことを「意識対象−意識内容−意識作用」の三項図式の克服と「事的世界観」と呼んでいるのだが、私の言い方の当否は別として、物的世界像から事的世界観への推転が世紀末の大きな流れであることは確かだと思われる。(これがマルクスの物象化論を私なりに拡充したものとどう関係するかは措くことにしよう)。
 価値観についても同じようなことが言える。もっとも、こちらは屈折しており、一口には言いにくいのであるが、物質的福祉中心主義からエコロジカルな価値観への転換と言えば、当座のコミュニケーションはつくであろうか。
 もちろん、世界観や価値観が、社会体制の変革をぬきにして、独り歩きをするわけではない。世界観や価値観が一新されるためにはそれに応ずる社会体制の一新を必要条件とする。
 この点に思いを致すとき、ここ五百年つづいたヨーロッパ中心の産業資本が根本から問い直されていることに考えがおよぶ。
 単純にアジアの時代だと言うのではない。全世界が一体化している。しかし、歴史には主役もいれば脇役もいる。将来はいざ知らず、近い未来には、東北アジアが主役をつとめざるをえないのではないか。
 アメリカが、ドルのタレ流しと裏腹に世界のアブソーバー(需要吸収者)としての役を演じる時代は去りつつある。日本経済は軸足をアジアにかけざるをえない。
 東亜共栄圏の思想はかつては右翼の専売特許であった。日本の帝国主義はそのままにして、欧米との対立のみが強調された。だが、今では歴史の舞台が大きく回転している。
 日中を軸とした東亜の新体制を! それを前梯にした世界の新秩序を! これが今では、日本資本主義そのものの抜本的な問い直しを含むかたちで、反体制左翼のスローガンになってもよい時期であろう。
 商品経済の自由奔放な発達には歯止めをかけねばならず、そのためには、社会主義的な、少なくとも修正資本主義的な統御が必要である。がしかし、官僚主義的な圧政と腐敗と硬直化をも防がねばならない。だが、ポスト資本主義の二十一世紀の世界は、人民主義のもとにこの呪縛の輪から脱出せねばならない。
 それは決して容易な途ではあるまい。が、南北格差をはらんだまま、エコロジカルな危機がこれだけ深刻化している今日、これは喫緊な課題であると言わねばなるまい。

朝日新聞 一九九四年三月一六日