柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

閉じた社会、開いた社会

ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(岩波文庫

 実際、我々の文明社会もまた閉じた社会(societes closes)である。

それは全人類という開いた社会(societe ouverte)のことであったか。


柄谷行人×松本哉「生活と一体化したデモは手強い」
脱原発とデモ』(筑摩書房

柄谷 僕も90年代まではいわゆる「現代思想」をやっていて、やたらに難しいことを書いていましたけど、90年代半ばを過ぎたら、それがどうしようもなくいやになってきた。もっと実践的に活動したいと考えるようになった。それで、1999年くらいからNAM(New Associationist Movement)という運動を始めようとしたのです。

福島のことを忘れてくれるな

高橋まこと×松本哉「福島のことを忘れてくれるな」
柄谷行人ほか『脱原発とデモ』(筑摩書房

 高橋 氷室(京介)や布袋(寅泰)みたいにドームで何かやって集めてっていうのとはまた別に、大口でなくても俺には俺のやれる範囲でやってる。


ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(岩波文庫

 古代の遊牧民がそうだったように、すべての人がすべての人に対して戦わねばならない。


ポパーは「開かれた」「閉じた」という言葉を
数学をイメージして使っていたのかもしれない。
ポパーユダヤ人として
プラトン=ナチズムの閉じた社会を批判したのか。
ポパーは、マルクスが考えた革命は底辺部からの平等主義であったが
ロシアにおいてその理論が政治権力が先行する集団主義に変形した
と考えたようだ。


K・ポパー『果てしなき探求 知的自伝 上』(森博訳、岩波書店

 アードルフ・ヒトラーは、ウィーンに滞在した彼の初期の時代に、後者の施設――「浮浪者収容所(アジュール・フューア・オプダハローゼ)」の収容者だった。

 この問題は、いうまでもなく、カントの第一アンチノミーの一部(空間に関する部分)であり、それは(特に時間に関する部分が付け加えられるならば)深刻な、今なお未解決の哲学的問題である――宇宙は有限半径の閉じたリーマン空間であるということを証明してこの問題を解決しようとするアインシュタインの望みが多かれ少なかれ棄てられて以来、とりわけそうである。


K・ポパー K. Popper
一九〇二―九四。ウィーンのユダヤ人家系に生まれる。四九―六九年、ロンドン大学教授。批判的合理主義の立場を打ち出し、科学方法論の領域では「反証可能性」の重視を主張し、社会哲学の領域では「漸次的社会工学」の理念を提起した。主著『探究の論理』『開かれた社会とその敵』『歴史法則主義の貧困』他。

アイスランドと北アメリカ

以下も講演で話していて
移民後に書かれた文学として
 アメリカにおける独立宣言
 日本における記紀万葉
と考えられるかと思った。


柄谷行人『哲学の起源』(岩波書店

 その点から見て、イオニアのポリスを考えるのに参照例が二つある。一つは、一〇世紀から一三世紀のアイスランドである。

 その証拠に、彼らは、彼ら自身が北欧から来たにもかかわらず、北欧の神話や武勲叙事詩の伝統とは異質な、ある意味でモダンな文字、すなわち、アイスランド・サガを生み出したのである。それは口承ではなく、書かれたものである。

 イオニアのイソノミアに類似するもう一つの例は、一八世紀アメリカのタウンシップに見出される。


シェイクスピアマクベス

 Fair is foul, and foul is fair.(正しいが不正で、不正が正しい)


ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(平山高次訳、岩波文庫

 もしその間隔と、一つ一つ通過せねばならぬだろう無数の点のことしか考えないならば、ゼノン(Zenon)の矢のように、出発することに何らの興味も、何らの魅力も感じないだろう。

 どんなに原始的な社会においても、物々交換(echanges)は行なわれる。

 我々はポリネシアの「マナ」(mana)に関していろいろ聞くが、それと類似のものは、他の所にも種々な名前で見いだされる――すなわち、シィウー族(Sioux)の「ワカンダ」(wakanda)、イロクォイ族(Iroquois)の「オレンダ」(orenda)、マレー人の「パンタング」(pantang)等々。

ここがロドスだ、ここで跳べ

アイソーポス(イソップ)寓話集「駄ぼらふき」

 ここがロドスだ、ここで跳べ(サルトゥス)。


ヘーゲル『法の哲学』序文

 ここにバラが、ここで踊れ。


カール・バルト "Der Romerbrief"
『ローマ書講解 上』(小川圭治・岩波哲男訳、平凡社ライブラリー

 ここがロドスだ(ヒック・ロドゥス)、ここで踊れ(ヒック・サルタ)。


オットー『聖なるもの』(久松英二訳、岩波文庫

 実際、われわれは、いと高き方にいつもDuで呼びかけることはできない。聖テレサは神に「陛下」と話しかけ、またフランス人は好んでVous〔二人称の敬称〕を使う。

久松英二「訳注」

 「オレンダ」(Orenda)とは、イロコイ語(北米先住民族の一つであるイロコイ族の言葉)で、呪術的な秘密の力を意味する。



柄谷行人氏は、講演で
ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』への批判を
用意していると言っていた。


柄谷行人『哲学の起源』(岩波書店

 そのため、この時期の変化を、観念的上部構造の次元に起こった精神的革命あるいは進化として見る見方が生まれる。その代表的な例は、アンリ・ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』である。

固有名イソノミア

柄谷行人は、古代ギリシャの文献で普通名詞だったイソノミア(均衡)を
固有名詞として強調している。

柄谷によれば、ポパーの『開かれた社会とその敵』での
平等主義という言葉がイソノミアだと言っているようだが
今は確認出来ない。


ポパー『開かれた社会とその敵』

 ……そうすることでプラトンが、平等主義者や個人主義者のあいだに、懐疑と混乱をひろげ、彼らが、プラトンの権威に影響されて、彼の正義観の方が自分たちのものよりも真実で良いのではないかと自問し始めるようになったのは事実である。「正義」という言葉はわれわれにとって非常に重要な目標を象徴し、またそのためならどんなことでも耐え忍び、その実現のためには力のおよぶ限りあらゆることをしようという人びとが大勢いるのだから、これらの人道主義勢力を味方に編入するか少なくとも平等主義を麻痺させることは、たしかに全体主義の信奉者が追求するに値する目標であった。


小河原誠『ポパー 批判的合理主義』(講談社

 プラトンは、これをおこなうにあたって正義についてのあらゆる見解を吟味したかのような装いをしながら、実際には平等説を故意に無視したというのがポパーの見解である。ポパーの分析の要点は次の点にある。(1)平等主義が本来立てている原則、すなわち生まれつきの特権の排除を逆転させ、むしろそのような特権が守られるべきだとした。(2)個人主義の原則を集団主義の原則によって置きかえた。(3)国家の任務は市民の保護にあるという原則を、国家の安定を維持し強化することが個人の任務であるという原則によって置きかえた。

火の鳥としてのイソノミア

僕は、柄谷行人の『哲学の起源』のように
アテネのデモクラシーに対して
イオニアにはイソノミアと言われる個人の自由があった」
と主張する事は困難だと思っている。

以前、キューブリックが各時代を描いた作品群
スパルタカス』『2001年宇宙の旅』『アイズ・ワイド・シャット』などが
手塚治虫の『火の鳥』シリーズのようだと思った事がある。

柄谷行人にとってのイソノミアは「火の鳥」のような気がする。

ヘロドトス小アジアハルカリナッソス出身だが
イオニアの強い影響があったと言えるのだろうか。


柄谷行人『哲学の起源』(岩波書店

カール・ポパーは『開かれた社会とその敵』において、イソノミアという概念を使っている。彼によれば、イソノミアは次の三つの原理にある。(1)出生、血縁、富などの自然的特権を認めない、(2)個人主義的である、(3)市民の自由を保護することが国家の任務であり目的である。

橋下徹の絶大な人気

宮崎学『「自己啓発病」社会』(祥伝社新書)

このようなあきらめ感、無力感といったものが、政治的アパシー(apathy 無気力、無感動)となって現われているのも事実である。大阪から広がった橋下徹の絶大な人気などはその典型であろう。

 山口(二郎)は小泉純一郎を念頭に置いてのべているのであるが、これはそのまま橋下にも当てはまるのではないか。

また、メディアも完全に橋下寄りであった。結局、彼を多く取り上げたメディアが、橋下に有利な世論を形成してしまったのである。