クローツの世界共和国
アナカルシス・クローツ『世界共和国(レピュブリック・ユニヴェルセル)』(1792年)
私は絶対的な平準化、人類という家族の諸利益を横切っているあらゆる障害の全面的な転覆を提案する。
われわれの人権宣言の中にひとつでもあらゆる人間、あらゆる風土に適用できない条項があるものなら私にそれを示してもらいたい。
カント「永遠平和のために」(1795年)
しかし諸国家はこのことを国際法に関する彼らの観念に従って決して欲せず、したがって一般的命題としては(in thesi)正しいものを個々の場合に関しては(in hypothesi)否認するから、一つの世界共和国という積極的理念の代りには(すべてが失われるべきでないとすれば)戦争を避けるための持続的であり絶えず拡大する連盟という消極的代用物のみが法を嫌悪する好戦的な傾向性の流れを、この傾向性の勃発する危険は絶えず伴っているけれども、よく阻止しうるのである(そのなかに神を無みする狂乱は――血まみれの口して物凄く叫ぶであろう、ヴィルギリウス)
フランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアン『墓の彼方からの回想』
野蛮人の生活に、このようにロシャンボー将軍〔一七二五−一八〇七。アメリカ独立戦争で軍功を経て元帥となる〕の昔の皿洗いがイロコイ族に教えたダンスで迎えられるとは、ルソーの弟子にとって耐え難いことではなかろうか。
シャトーブリアン『ナチューズ族』
イロコイ族の掘立て小屋の間にお偉方も細民もなく、金持ちも貧乏人もない。
多くの点で中世的な人物であるコロンブスはとくに野蛮人に価値付与をおこなうわけではない。彼はむしろ南アメリカ大陸のどこかに自分は地上の楽園そのものを発見するだろうと考えている。それに比べよりルネサンスのひとであるアメリゴは、そのような迷信に信をおかない。だが同時にアメリゴは同じ南アメリカ大陸におけるインディオたちの生活を、楽園で展開するはずの生活により近いものとして描き出すのである。
彼のイロコイ族の弟子たちはすでに相当よくフランスのダンスをおぼえていた。
森の中にはダンスの教師たちがいるし、イロコイ族はうやうやしくお辞儀をするすべを知っている。
シャトーブリアンは彼が出会う諸民族の言語(イロコイ語、トルコ語)を学ぶようにとの示唆を軽蔑をもって退けていた。
ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』(及川馥・一之瀬正興訳、法政大学出版局)
この上に記号(恣意的)と象徴(自然的)の対立関係を基礎づける十八世紀の試みは、ヘーゲルとソシュールによってそれは再開されるのだが、ここ(アウグスティヌス『キリスト教教程』397年)ですでにのりこえられているのである。