ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』
ポール・ド・マン "Allegories of Reading" 『読むことのアレゴリー』
『サヴォアの助任司祭の信仰告白』のようなテクストは、互いに根本的に排除しあう複数の主張に道を開くという意味で、文字通り「読みえない」と言っていい。そればかりでなく、これらの主張はたんなる中立的な述定的発言ではない。それは、言葉から行動への移行を要求する訓戒の意味を帯びた遂行的発言なのである。これらの主張は、およそあらゆる選択の根拠を破壊する一方で、強く選択をせまる。これらの主張が語るのは、賢明でもなければ、正当でもありえない判決の寓話である。クライストの劇でのように、評決がみずからの非難する当の犯罪を反復しているのだ。もしも、『信仰告白』を読み終えて、私たちが「有神論」に誘われることにでもなれば、知性の法廷で愚昧罪を宣せられることになるだろう。しかし、もしも私たちが、目覚めた精神は、言葉の最も広い意味での(偶像崇拝とイデオロギーのありとあらゆる形態を含む)信仰を徹底的に克服できると考えるならば、この偶像たちの黄昏は、みずからがその最初の犠牲者だと気づかないだけ、愚かしいものとなることだろう。読むことの不可能性をくれぐれも軽く考えるべきではないことが、これによって分るのである。
克服できない障害が、どのような読解の行く手にもたちふさがっている。
遂行的な発話と事実確認的な発話の間のアポリアは、実は譬喩表現と説得の間のそれの変奏である。譬喩表現と説得とはともに修辞を生成し、そしてそれを麻痺させる。そのことによって修辞に歴史のみせかけを与える。
It was hardly light enough to read, and the sensation of the light's splendor was given me only by the noise of Camus . . . hammering dusty crates; resounding in the sonorous atmosphere that is peculiar to hot weather, they seemed to spark off scarlet stars; and also by the flies executing their little concert, the chamber music of summer: evocative not in the manner of a human tune that, heard perchance during the summer, afterwards reminds you of it but connected to summer by a more necessary link: born from beautiful days, resurrecting only when they return, containing some of their essence, it does not only awaken their image in our memory; it guarantees their return, their actual, persistent, unmediated presence.
The dark coolness of my room related to the full sunlight of the street as the shadow relates to the ray of light, that is to say it was just as luminous and it gave my imagination the total spectacle of the summer, whereas my senses, if I had been on a walk, could only have enjoyed it by fragments; it matched my repose which (thanks to the adventures told by my book and stirring my tanquility) suppoeted, like the quiet of a motionless hand in the middle of a running brook the shock and the motion of a torrent of activity. [Swann's Way. Paris: Pleiade, 1954, p.83.]
部屋の暗い冷たさが……夏の景観のすべてを、私の想像力に与えてくれた。もしも戸外を散歩していたとしたら、私の感覚は、夏の断片しか感じとれなかっただろう。
私の前で小さな演奏会を開き、夏の室内楽を奏してくれた虫たち。
それは、夏のある日にたまたま耳にした人間の音楽が、のちになって夏を想い出させるのと違って、もっと必然的な絆で夏と結びついている。美しい日々から生まれ、美しい日々が再びめぐってくるときにだけよみがえり、美しい日々のエッセンスを幾分かはもっている虫の音楽は、私たちの記憶の中にあるそれらの日々のイメージを目覚めさせるばかりでなく、それを回帰させ、実際にしっかりとそこに現前させる。
私の安らぎにぴったりであった。その安らぎは、(私の手にしている本の中で物語られ、私の静謐をかき乱した冒険のせいで)、流水の中にひたされたまま動かない静かな手のように、奔流のような活動の衝撃と活気を受けとめた。
It contrasts two ways of envoking the natural experience of summer and unambiguously states its preference for one of these ways over the other: the "necessary link" that unites the buzzing of the flies to the summer makes it a much more effective symbol than the tune heard "perchance" during the summer.
それは夏の自然体験を喚起するふたつの方法を対照し、そのうちのひとつを他方よりも好むことを、はっきりと述べている。虫の羽音と夏を結びつける「必然的な絆」は、夏の日に「たまたま」耳にする音楽よりも、ずっと効果的な象徴となる。この好みの差は、隠喩と換喩の差異に対応するひとつの区別によって表現されていると言っていい。必然性と偶然性は、類似と隣接とを区別する正当な方法だからである。同一性と全体性を喚起することは、隠喩にとっては不可欠の作業であるが、関係性のみに頼る換喩的な接触にはそれが欠けている。……この文章は、隠喩が換喩に対して美的に優越することについての文章である。……しかし、このテクストが、みずからの説くところを実際には行っていないことを示すのは、さほどむずかしいことではない。この文章の修辞法に注目して読むならば、譬喩の実践とメタ譬喩的な理論とは一致しておらず、隠喩が換喩よりも優越しているという主張は、換喩に基づく構造の使用によって説得力をえていることが分るのである。
したがって熱は、このテクストの中にこっそりと、秘かに刻み込まれている。……みごとな、蠱惑的な隠喩に満ちているだけでなく、隠喩のほうが換喩よりも優越していることをはっきりと主張しているくだりが説得力をもっているのは、偶然に、これといった理由もなしに成立する譬喩が、必然性をもつ譬喩というまやかしの仮面をかぶって戯れているためである。
隠喩が統合力をもつことが最も強く主張されているまさにその瞬間に、ここにあるイメージ自体がじつは半自動化した文法的形式をこっそりと使用するといういき方に依拠しているのである。
脱構築は、論理的な反駁や弁証法の場合と違って、陳述と陳述との間に生起するのではない。それは、〔テクスト内の〕言語の修辞的な性格に関するメタ言語的な陳述を一方に置き、もう一方にはそうした陳述に疑問をなげかける実際の修辞法を置いて、その二つの間に生起するのである。
隠喩は隠れた換喩となる。
われわれに隠喩の無力さを告げる語り手も、実は彼自身が、あるいはそれ自身が、ひとつの隠喩なのである。隠喩が優越していると言いながら、反語的に隠喩を否認してしまうひとつの文法構造の隠喩なのである。
宙吊りにされた無知の状態。
O chestnut-tree, great-rooted blossomer,
Are tou the leaf, the blossom or the bole?
O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance?
イェイツ「学童の間で」
マロニエの樹よ、巨大な根をおろし、花をつけるものよ
おまえは葉であるのか、花なのか、幹なのか?
音楽に合わせてゆれる存在よ、おお、きらめく眼の光よ
踊り手と踊りを、いかにして見分けよう?
It is equally possible, however, to read the last line literally rather than figuratively, as asking with some urgency the question we asked earlier within the context of contemporary criticism: not that sign and referent are so exquisitely fitted to each other that all difference between them is at times blotted out but, rather, since the two essentially different elements, sign and meaning, are so intricately intertwined in the imagined "presence" that the poem addresses, how can we possibly make the distinctions that would shelter us from the error of identifying what cannnot be identified?
最終行を譬喩としてではなく、文字通りに読むこと、すなわち……同一視できないものを同一視するという間違いからわれわれを守ってくれる区別は、どうすれば可能になるのかと問うていると読むことができる。……この疑問文は修辞的なものであるとする読みは、おそらく素朴すぎるのであって、文字通りの読みのほうがそのテーマと陳述内容とをより大幅にわかりにくいものにする。
このふたつの読みは、真正面から衝突して戦わざるをえない。
なぜなら、一方の読みは、もう一方の読みがしりぞけるようとする誤りそのものであり、それによってくつがえされてしまうはずだからである。……文法構造が生みだす意味の権威なるものが、差異を発見することを強く求めながら、同時にそれをおおい隠してしまう譬喩の二重性のために、完全にかき消されてしまう。
脱構築のつねに変らない標的は、単一性をもつとされている全体の中の隠されている分節や断片化の存在を明らかにすることである。
歴史的にみて、こうしたルソー解釈に基づいて可能となってきたことはかなりある。『新エロイーズ』を読み直そうとするさいに面白い可能性のひとつとして考えられるのは、ルソーから始まるとされる系譜に属するはずのテクストを、並行して読み返してみるということである。歴史的な〈系統〉なるものが、こうした読みの最初の犠牲者になることも十分に考えられるのだ。こうした読みが抵抗をうける理由のかなりの部分は、それで説明がつくであろう。
ロマン主義という現象を正当に扱いうる歴史が一体ありうるのか、という疑問が生じてもおかしくはない。なぜならば、(それ自体時代概念である)ロマン主義は、すべての歴史物語の根底にあるはずの、生成という大原則に疑義をさしはさむ運動となってしまうからである。
理解するとは、まず第一に、テクストの対象指示のありようを確定することである。
われわれはこれが可能であると考えやすい。……字義通りの意味と譬喩的な意味の区別さえできれば、譬喩をしかるべき指示対象へと送り返すことができる、と。
すべての言語が究極的に目指すところは、対象指示的な意味であると考えることである。対象指示的な意味の拘束から気楽に逃げだせると考えるなら、まことに愚かであると言っていい。
〔ルソーの『人間不平等起源論』や『言語起源論』における〕〈人間〉と同じように、〈愛〉もまた譬喩ならざるものに変わってしまう譬喩である。宙吊りの開かれた意味構造に、それが固有の意味をもっているような外貌を与える隠喩なのである。
愛は幻にすぎない。それは、いわば自分だけのためにもうひとつの宇宙を作りあげる。愛はみずからを、存在しないものや、愛によってはじめて存在するものでとり囲む。愛はその感情をイメージによって述べるので、その言葉はつねに譬喩的になる。
『新エロイーズ』を、このように、〈愛〉という言葉が具体的な対象をさすことに疑問を呈し、その譬喩性を明らかにするものとして読むことは、可能であるばかりではなく、必要なことでもある。
隠喩による誘惑を脱構築することを狙った物語。
(肯定的に描かれることもあれば否定的に描かれることもある)この欲望の情念化は、実在する欲望が不在の実体にとってかわってしまっていることを示している。テクストが実在の、あるいは理念上の指示対象の存在を否認すればするほど、そして空想的なフィクション性を強めれば強めるほど、それはみずからの情念の再現表象と化してしまうことを示している。
われわれの生活を支配している数限りない書かれた言葉は、それらの対象指示力についてのあらかじめの合意によって、理解可能なものとなっている。しかし、この合意は単なる約束に基づくものであって、必然性のあるものではない。それを破ることはいつでも可能であり、どのような書きものについても、ちょうど『新エロイーズ』の序文の場合と同じように、その修辞性のありかたを問うことができる。これが起るときはいつも、最初は証拠とか手段と見えていたものがテクストに変わり、その結果、その読み方の如何が疑問に付される。この問いかけは、一方ではそれに先行するテクスト群に向かうものの、他方では、場としてのテクストを閉じると称する(だけで、それには成功しない)他のテクスト群を生みだすことになる。なぜならば、これらの陳述のひとつひとつがまたテクストとなるからである。それはちょうどペトラルカからの引用や、これらの手紙を「収集して発表した」のは自分であるというルソーの主張を、テクスト化できるのと同じことである――もっともそのためには、それらはすべて嘘であって、その反対が真実なのだと単に主張するだけではだめで、それらは真実であるか虚偽であると、無批判に決め込んでしまう合意行為がその裏にあることを、明らかにしなければならないが。
ひとつの譬喩(あるいはある一群の譬喩)を見つけて、それを脱構築することが、すべてのテクストにとってのパラダイムとなる。
物語は、みずからの錯乱した命名行為の話を、はてしなく語り続ける。
確かに誤りや偽りの見せかけを暴くという消極的な道をたどってではあるにしても、ひとつの真実に到達する。
われわれは消極的な安心感を手にいれて、そこで多くの批評的言説を生みだしてしまうようだ。
最終的な読みを提出して何らかの結着をつける力をもっていない。
みずからも、譬喩による補遺的な物語をうわ乗せするだけの話で、結局のところ、第一の物語が読みきれないことを語る。
たとえば『人間不平等起源論』のような譬喩的な物語は、命名することの失敗談を語る。ところが、アレゴリカルな物語は読むことの失敗談を語るのだ。
すわりの悪い無知。
ルソー『新エロイーズ』
私はあなたの顔の中に、私の魂が求めている魂のしるしを見出したと思っていました。自分の五官は、高貴な感情に使えているように思えました。私はあなたを愛していました。あなたの中に私が認めたと思ったもののためというよりは、自分の中に感じたもののために。
肉体と魂、自己と他者の類似と置き換えに基づいた〈愛〉のかわりに、契約による結婚が現われる。それは情念にたいする防壁として、社会と政治の秩序の基礎としてうち立てられる。
ジュリーが最大の洞察を手にするその瞬間に、彼女自身の言葉の修辞性を制御する力を、彼女もわれわれも失ってしまうのである。
ジュリーの言葉は、彼女が誤りとして退けた考え方をたちまち繰り返す……彼女には自分のテクストを〈読む〉ことができない。そのテクストの修辞のありようと意味の結びつき方を認識することができない。
アレゴリーはつねに倫理的である。
倫理的な調子への移行は、何か超越的な要請から来るのではない。ある種の言語的な混乱が対象指示性の問題に(したがって信頼できないものに)すり換えられているのである。
作家がみずからのテクストの理解可能性を保証しきれないことを表す……容赦のない身振り。
みずからのテクストの不透明性を前にして無力感を感じたルソーが、そのことを表明するというのは、ジュリーがその洞察の瞬間に隠喩的なモデルに立ち戻ってしまうのに似ている。
譬喩的なテクストの脱構築は明晰な物語を作りだすけれども、そうした物語は、いわばみずからの内に、自分が追いはらった誤りよりもさらにてごわい暗黒を生じさせてしまう。
完全に迷妄から解き放たれた言葉であっても、……みずからの暴露した誤りがそれ自身とその読み手との中によみがえるのをコントロールすることはできない。
修辞性に注目する読みは、こうした誤謬を少なくともある程度までは予見して超えることができる。
約束することはできないとしたにもかかわらず、それが再導入されるのは、作者の分別にかかわることではない。……テクストがこのような侮りがたい力をもつのは、そのもとにある修辞的モデルのせいである。そのモデルは言語上の事実であって、ルソーがそれを制御することはできない。他の読者と同じように、彼もまたこのテクストを政治的な変化を約束するものと誤読せざるをえないのだ。誤りは読者にあるのではない。言語そのものが行為と認識を分離してしまうのだ。言語が約束する。言語が必然的にひとを欺くのに応じて、それは同じように必然的に、真実を語るという約束をたずさえていることになる。
『人間不平等起源論』が告げているにもかかわらず、ルソーの古典的な解釈がかたくなに耳を閉ざしてきたのは、人間の政治的運命なるものは自然からも主体からも独立して存在する言語的モデルと同じように構造化されており、そこから派生しているということである。人間の政治的運命は、「情熱」と呼ばれる盲目的な譬喩化の作用とともに生じ、そしてこの譬喩化の作用は意志的な行為ではないということである。……かりに社会と政府とが、人間とその言語との間の緊張から派生するものだとすると、それらは自然な(人間と事物との関係に左右される)ものではなく、倫理的な(人間同志の関係に左右される)ものでもなく、神学的なものでもない。言語は超越的な原理ではなく、偶然的な誤りをおかす可能性をもつものだと考えられるからである。政治的なものは、そのために、人間にとっては好都合の機会というよりも、むしろ重荷となる……。
ポール・ド・マン『死角と明察』
読解は当然可能だと考えることは、決してできない。
批評家がどこで、どのようにして作品からそれていったかを示すために、作品に繰り返したち戻ることができる。
ルソーはその言語が文学的であるのに比例して、ロゴス中心主義の誤りから逃れている。
文学的な特性をはかる目安というのは、その様式がもつ論述力の大小ではなくして、そこで使われている言語がどれだけ一貫して〈修辞性〉をもつかということである。
解釈作業の全体化をめざす意図。
超越的な知覚や直観や知識を。
明察はどうやら……その批評家の思考をつき動かしているある否定的な運動から得られているようだ。その否定的な運動とは、批評家が公に表明する立場からその言語を引き離してしまう暗黙の原理であって、彼が表明している立場をねじ曲げて解体し、実質上それを空虚なものにしてしまう。あたかも、何かを主張するということ自体が疑問視されてしまうかのように。にもかかわらず、この否定的な、見たところ破壊的な作業こそが、まさしく明察と呼ばれうるものにつながっているのである。
みずからを可能にした前提そのものを破壊する。
これらの批評家はすべて、自分の言おうとしたこととまったく違った何かを言ってしまうという不思議な運命をもっているように思われる。彼らの批評上の姿勢――ルカーチの予言者的な態度、プーレが根源としてのコギトによせる信頼、ブランショによるメタ・マラルメ的な非人称性の主張など――を、その批評の結果がうち破る。そして文学言語の性格についての奥の深い、難解な明察が生まれてくる。しかしながら、こうした明察は、批評家たちが固有の死角の虜になっていたからこそ得られたのだと言えるかもしれない。彼らの言語は、彼らの用いた方法なるものがこの明察のとらえたものを感じとれなかったからこそ、ある種の明察に向かって手さぐりで進みえたのかもしれない。この明察は読者にとってのみ存在する。読者は特権的な立場にいるがゆえに――みずからの死角というのは定義上問うことができない――この死角を死角として見つめることができ、明示的な陳述と意味とを区別することができるのである。すでに死角にとらえられているために、光の力を恐れる必要がないというただそれだけの理由から、光に向かって進む力をもつ洞察力のもたらす明白な結果を解体するのは読者の責任である。この洞察力なるものには、途中で知覚したものを正確に報告する力がない。したがって、批評家について批評的に書くということは、それと知らずにみずからが生みだしてしまう明察によって正されるべき、死角をもつ洞察の逆説的な有効性について考えるということになるのである。
現代におけるルソーの最良の解釈者は、ことさらにルソーを理解しないようにしなければならなかった。
彼(デリダ)はルソーの中にまずひとつの現前性の形而上学を措定し、そして初めて、それがうまく機能していないこと、あるいはそれが言語の隠された力に依存していて、この力が現前性の形而上学をその基盤から引きはがし、破砕することを示しうるのである。
デリダによるこのような誤解は、従来のどんな誤解よりも、ルソーが実際に言っていることに近い。なぜならば、彼の誤解は、明晰さが最もたかまったところを最大の死角として選びだしているからだ。修辞の理論とその不可避の帰結とが、それである。
なぜなら、そもそも真実と虚偽の問題にかかわらない読みなどは考えられもしないからである。
ヤウスの方法論は、すべての方法論についてそうであるように、それ自体がもつ分析手段では乗り越えられないような限界をもっている。
もともとの発話が曖昧なところをもつほど、あとに来てコメントを加える者たちが犯しつづける誤りのパターンは、画一的で普遍的なものになる。
最も迷妄から遠いと考えてよいはずの作家の場合にこそ、とりわけ豊かな誤読の伝統が存在するということは、したがって偶然ではない。むしろそれこそがすべての文学を構成する契機であり、実は文学史の基礎なのである。
批評家の取りうる立場のうちで最も好ましい立場。
(批評家が)取り組んでいるのは、言語が許すかぎりの明察に富み、逆にそのために組織的に誤読されている作者であり、新しく解釈されたこの作者の作品と、欺かれた解釈者あるいは支持者のうちで最も才能ある者とを対置することができる。
言うまでもなく、この新しい解釈もまた、それ自体が固有の死角にとらえられることになる。
力ずくで誤った解釈をうけ、過度に単純化されて、実際に言っていることと正反対のことを言ったことにされてしまう。
ポール・ド・マン「隠喩の認識論」
その場合に生ずる決定不能性は二項対立モデルのもつ非対称性に由来する。
収録した論文が共有するひとつの生産的な身振がある。それは、目の前に突きつけられた読みの精密さをさらに上回り、精読をさらに精読することによって、これまでの精読は十分に精密ではなかったことを示すことである。
ポール・ド・マン「前書き」キャロル・ジェイコブズ『偽りの調和』
見かけ上の困難(それは統語法から来ることもあるし、譬喩の用法に関するものであることもあるし、経験に関係することもある)に直面して……あくまでも納得のいくかたちでそれに対処すること。
もしも、かりにここで、作品分析のエートスを逆転し、本当の意味において精密であろうと試みたら、どうなるだろうか。
意味を支配するという目的論に、もはや盲目的に従おうとはしない読み。
そうした記念碑化は、必ずしも単純な振舞いとか、問題の回避とかいったものではない。それどころか、この振舞いをせずにすます振りのできる者は誰もいないのである。
理解を率直には受けつけないだけに、必ず再読する必要がでてくる。そして読むとは理解し、問い、知り、忘れ、消し、判りにくくし、反復することである。すなわち、それは尽きることのない活喩法なのであって、死者に顔と声とを与えることである。そしてその声が彼らの死のアレゴリーを語り、われわれが彼らに呼びかけることを可能にする。それは言葉によって生みだされる狂気であって、どのように知識を積み重ねてみてもとどめることはできない。主体としてのわれわれのものではないこの戦略は、(それがわれわれを生みだすのであって、われわれがそれを操作するのではない)、価値の源泉になりえる。だからと言って、それはしかるべく称揚か拒否しなければならない何かだと考えるのは、ナイーヴにすぎるというものだろう。
このような考えが出てくるときはいつでも――そのいつでもがたえず起こるのだが――誤読が生まれてくるけれども、それは捨てるべきものだし、またそうすることが可能である。それはシェリーの詩が主題化してみせる善悪を越えた、強制力をもつ「忘却行為」とは別のことである。今日の批評と文学の舞台においてこの考え方がとるさまざまなかたちや名称を列挙し、分類しても、仕方がないだろう。この考え方がテクストを歴史化し美的対象と化してゆくことは退屈なくらいに分りきったことであるが、それとともに、このエッセイでもそうであるけれども、テクストを利用して方法論的な主張に向かうこともあるのである(その場合、そうした主張が従来の考え方を否定するものであるだけに、逆にひときわ熱誠のこもった主張となる)。われわれとの関係において、さらには他の文学運動との関係においてロマン主義を定義、理解、画定しようとする試みは、すべてこのナイーヴな考え方から生れてくる。『生の勝利』は行為、言葉、思考、テクストのいずれのものも、それに先行する、それに続く、それとは別の場所にあるものとの関係を通して(肯定、否定の関係を通して)生起することはない、それらは死の力のように、その生起の仕方がでたらめであるからこそ力をもつようなでたらめな出来事として生ずるのだと警告している。それはまた、こうした出来事が、なぜ、いかにして、歴史的かつ美的な回復のシステムに再統合され、しかもそのシステムが、その誤謬を明るみに出されてもなお反復されざるをえないのかについても警告している。
言語というシステムにあっては、実定的な辞項をもたない関係しか存在しない。
言語学的分析の対象とは、書かれる言葉と話される言葉の両者であると言うことはできない。話される言葉だけがその対象である。
もうひとつの記号のシステムである書かれる言葉においても、同一の事情が観察されるので、書かれた言葉から例を引いてこの問題全体を解明しよう。